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「埼浄青会報」第20号平成14年3月31日発行より転載。 |
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佛名山常行院
西雲寺
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由緒沿革
当山は、佛名山常行院西雲寺と号し、昔は川越蓮馨寺の末寺の一つであった。開山は般舟三昧院西雲法師(正保二年〔一六四九〕五月十五日入寂)である。境内には延宝三年(】六七五)の道俗時衆による大別時念仏の碑が残されており、また、増上寺第二十二世、蓮馨寺第七世暁巻上人が導師となり、元禄七年(一六九五)四月十四日、既に不断念仏二万日回向完遂という伝承が残っている。山号に語られるとおり、念仏の道場として建立されたことが知られる。
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昔、松平伊豆守信綱公が河越城主(寛永十六年一六四〇〜)の治世では、河越城の南側清水町(現、小仙波)太田十左衛門の屋敷付近に当山が在り、境内からは泉の湧き出るのどかな所であったと云う。正保年中(一六四四−一六四七)河越城の大拡張に伴い信綱公より脇.田村梵心山一町を拝領し、現在の地(現、新富町)へと移転した。
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本尊阿弥陀如来像は木刻坐像(傳・鎌倉期作)で、上品上生の印を結び、柔和な願相をたたえている。尚、本堂は再三の火災で焼失したこともあり、二十四世多答上人の代に縁があって、板橋中宿の乗蓮寺(現、赤塚・・東京大仏)旧本堂の譲与を受け移築し、屋根を入母屋造に改め、昭和五十一年落慶再建された。
境内には地蔵堂が在り、日限三体地蔵尊を安置している。この地蔵尊は諸願に霊験があり、特に昔天然痘が治ったのである。天正年間、会津若松城主盧名盛氏公が霊夢のお告げを受け、城下の葦の沼を堀ったところ、沼より三体地蔵が出現したので、これを同所の西光寺へと安置し、後に小笠原石見侯の藩士松浦嘉太夫次周が御分身を彫り、その尊重を当山に安置している。繁華街の中に当山は位置するが、菩提樹・沙羅樹・桜・梅・紅葉等四季折々の風情に満ち、憩いの緑地として市民に広く親しまれている。
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(室田円道記) |
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