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「埼浄青会報」第22号平成16年3月31日発行より転載。 |
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寿昌山了心院
見立寺
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由緒沿革
永禄元年(1158)、後北条氏の川越城将大導寺駿河守政繁は、城下に一寺を建立して建立寺と名、づけ、一族中の感誉存貞和尚を小田原の伝肇寺より招請して開山とし、のち見立寺と改めた。
感誉存貞和尚は、永禄六年に増上寺第10世となったが、永禄9年見立寺に再住した。そして先に政繁の母が平方村に造営した蓮馨寺を川越に移し、両寺を兼帯した。
天正18年(1590)豊臣秀吉の禁制書には、「武州川越蓮馨寺同門前見立寺」と記されていることから、当初は蓬馨寺門前にあったことが想像される。しかし、蓮馨寺門前より当地に移転した年代、経緯など不祥であるが、おそらく、延宝年中(1670年代頃)であると考えられる。
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境内には、徳本上人名号碑がありその石碑には文化十四年とあり、上人が晩年関東を訪れた際に当寺に立ち寄られたことが伺われる。見立寺は文政11年(1828)3月25日の石原火事により類焼。さらに天保11年(1840)4月8日に焼失されている。再度の火災により、古文書等も現存していない。ちなみに現本堂は、明治14年(1881)に建立されたものである。
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年中行事としては、8月の大施餓鬼会法要の他、春秋彼岸のお中日には「彼岸会おつとめ会」と名付け、多くの檀信徒とともに日常勤行をおつとめし、共々にお念仏をお唱えするひとときをもうけている。また、近年では川越七福神の一寺院として広く一般の参詣者も多く訪れるようになってきた。
その他、当寺には、板碑(青石塔婆)二基、松平(松井)周防守家の阿弥陀如来坐像並藩主位牌などが現存している。
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(益良龍雄記) |
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