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「埼浄青会報」第12号平成6年3月31日発行より転載。


光壺山無量院
惣円寺

由緒沿革

 物心ただ円かれと願う寺
  慈悲の恵の無量寿の里

 光壺山無量院惣円寺と称します。
 当山の草創は武甲庄浦山の地(現在の秩父市大字浦山地区)でした。その後、寛永年間(ニハニ四〜一六四四)閑野帯刀邸跡の現在地に移転し、関東郡代伊奈氏の弟、日誉源底上人を開山に迎えてより、現在の住職で十九代目となります。
江戸時代には、当寺の鐘が、忍藩秩父領の標準時刻を報知する役を果していたので、秩父絹市、秩父夜祭等が皆、この音色の合図により開始されていました。撞かれる鐘の音は秩父の山々に響いて無量寿仏の里を示す音色となっていたことと想われます。

 また、明治時代には、秩父第一小学校の前身となる、秩父で最初の学校が山内に設置されるなどしましたが、同十一年の秩父大火により、諸堂は焼失しました。しかし、その経験より、総体が白漆喰込めという、和風の建築を洋風手法で防火構造にした、特徴ある建築物として現在の本堂が再建されました。
 その後、昭相五十九年、第十八世中興明誉上人の代より昭和六十一年にかけて、宗祖法然上人御降誕八百五十年及び当山創立三百六十周年記念事業として、本堂・弁天堂の修復、境内整備、また、明治十一年の大火以来仮設であった庫裏の新築等の聖業が成り、今日に至っています。本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代・快慶の作と伝えられており、県の有形文化財に指定されています。最近、埼玉県立博物館の開館二十周年を記念して催された「さいたまの名宝国宝・重要文化財」展に出晶された際には、鎌倉時代中期の作で、おそらく京都より運はれたものであり「仏師快慶が創始した『安阿弥様』を受け継ぐ、快慶周辺の仏師の作と思われる。」とされていました。その後、東京国立博物館にて、完成以来およそ七百年に及ぶ信仰の歴史を今後に伝えるため、修復に約一年間を費やし、昨年、無事、当山にお戻りになりました。

 また、当山の主護神としてお濤りしております「八習大弁財天神」は、開山当時より民衆の信仰を集めてまいりましたか、やはり、明治十一年の秩父大火災によって御尊像は消えました。しかし、その霊像は減滅せず、当山代十八世の夢枕に、再度御姿を現されたので、不思議に感じて近郷近在にその御姿を求めたところ、「開運八腎大弁財天神」弘法大師御作秩父惣円寺とある掛軸をみいだしました。そして、その御姿を御尊像として再現いたしました。以来、再び広く民衆に福徳のあらたかさを現実に示し、昭和五十一年に、開運秩父七福神巡りがひらかれてからは、その紅一点の女神としても参拝祈願に訪れる人々が増加してまいりました。

(山極隆正記)

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