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「埼浄青会報」第23号平成17年3月31日発行より転載。


大平山廣澤院
法臺寺

由緒沿革

当山は、源頼朝公存命中の治承4(1180)年、勅命により建立された《館》(奉号「廣澤の清浄殿」)が発祥である。
 文永3(1266)年、宗尊親王の命により、源実朝公の御台所久米御前(千葉常胤の娘、法名「廣澤院従二位承山實塞禅定尼」)の菩提を弔うため、清浄殿を「廣澤院實墓寺」と改めさせた。(新編武蔵野風土記に『武藏野現來新坐郡野方領廣澤庄久米留川里片山之郷大平山廣澤院寳墓寺』と記されている。)
 後に時宗(一遍上人開祖)二祖他阿真教上人が、当山に遊行し、時宗の念仏道場とした。
 江戸時代に入ると、徳川家康公に浄土の教えを説き、近世浄土宗発展の礎を築いた普光観智国師存応上人が当山より輩出した。
 存応上人は八王子の出身で、法然上人のお父様と同じく、討ち死した父の命により十歳にて、当山十四世蓮阿上人の元で出家、得度し、時宗の僧「慈昌」と号した。その後、上人は白旗の流儀を研讃し、後に増上寺の中興開山となった。当山もこれと前後して浄土宗に改宗された。
 上人は後陽成天皇に浄土の法門を進講し、国師号「普光観智国師」を賜った。それを機縁に国師六九歳の寿像を当山に納めさせ、寺号を「法壷寺」に改めさせた。
 そして、寺領十三石五斗の御朱印を家康公より賜ったのを受けて、旧増上寺の本堂を当山に移築し、寺域を整えさせた。明治二十年に近隣の災禍を受け、本堂以下堂宇を悉く灰儘に帰した。
 明治二五年、五間四方の仮本堂を建立したが、激動の昭和期を経て老朽化激しく、第三六世信翁和尚と現住により伽藍の整備を発願、平成十年に落慶を迎え今日に到る。
 また当山には時宗往時の板碑が現存し、六字名号は他阿上人の直筆ではないかと伝えられている。

【寺宝】
・本尊阿弥陀三尊像
・開山弁財智他阿真教上入像
・中興観智国師存応上人寿像
・六字名号板碑(県指定文化財)
【主要教化行事】
・施餓鬼会(8月16日)
・十夜会(11月15目)
【交通】
 新座市道場1ノ10ノ13
・西武池袋線 大泉学園駅
・東武東上線 朝霞台駅より西武バス「片山小学校」下車、徒歩一分
(岩崎法翁記)

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